研究科長挨拶

微を穿ち 幽をひら

1897年(明治30年)、日本で2番目の国立大学として京都帝国大学が創立されました。この新興大学に文学部を設けるにあたって期待されたのは、人間形成、教育、研究という大学の三任務を兼備しつつ、「あくまで各人自由の研究を眼目とし、教授も学生も共に不羈独立にして束縛を脱し、いよいよ進んで学術の蘊奥を究め、微を穿ち幽を闡く」、つまり気づかれにくい課題を発見して徹底的に追究し、隠れた本質を解明できる能力をそなえた人材の養成でした。学生に対しては、少人数教育を通じて「研究心を発揮し、研究の方法を知り、実力を養成」し、図書館や研究室を利用して自ら博く読み、あるいは腰を据えた実験や実地での観察・調査に取り組むこと、多くの時間を自修に費やすこと、できるだけ世界の大学での経験も積むこと、そして最終的に独創的な研究成果を卒業論文にまとめることが求められていました。講義を聴いていればよいという姿勢に学生が陥ることを戒め、「授業は元来大学本体の事業にあらず」、単なる手引き・補助に過ぎない、とまで言い切っていたのです。

このような理念をもって1906年(明治39年)に開設された京都帝国大学文科大学こそ、現在の京都大学文学部・文学研究科の濫觴です。創設時から置かれた哲学科・史学科・文学科の専攻分野には心理学・社会学・地理学・言語学が含まれ、人文社会学を広く研究する学部として、現在に至るまでの110年を吉田山西麓の地から動くことなく、教育研究が続けられてきました。

ここで忘れてならないのは、京都が単なる観光地ではなく、日本の知的伝統を1200年以上にわたって維持してきた都市だということです。たとえば著名な儒学者伊藤仁斎(1627-1705)が以下のことばを書いたのは、京都においてでした。

書物を読み、事実にもとづき推論し、過去の人々の著作や歴史上のできごとから教養を得る――こうした行為の目的は、ただ世界のありかたを知的にきわめてみようということにとどまるものではありません。バランスのとれた最適化の発見をめざすことにあるはずなのです。(『童子問』)

このように考えた伊藤仁斎は、自らが徹底的に学んで体得した既存の知的枠組みに対して疑いを抱き始め、人間にとってのバランスのとれた最適化を求めて、17世紀以降の日本に大きな影響を及ぼします。過去を継承すると同時に、批判的立場を生み出す力のある京都の知的伝統こそ、われわれの大学の研究を成り立たせてきたひとつの背景なのです。

初めて文学部・文学研究科を訪れたみなさんは、京都の市街地を三方から囲んだなだらかな山々の森を望むことができる位置にあること、多くの史跡・美しい庭園や「聖地巡礼」の場からも遠くないことにすぐ気づくことでしょう。よく知られた哲学の道や鴨川デルタ・糺の森へも、気の向いたときにいつでも散策に行くことができます。わたくしたちの学部・研究科の理念に共鳴するみなさんが、このような環境の中で、自由な研究の精神を受け継いでくださることを強く期待しています。

文学研究科長・文学部長 平田昌司