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科学哲学ニューズレター

No. 36, September 14, 2000

Book Review by Soshichi Uchii:

Highfield, R. and Carter, P., The Private Lives of Albert Einstein, St. Martin's Press, 1993.

Zackheim, M., Einstein's Daughter: The Search for Lieserl, Riverhead Books, 1999.

Editor: Soshichi Uchii


アインシュタインの裏側

Roger Highfield and Paul Carter, The Private Lives of Albert Einstein, St. Martin's Press, 1993.

Michele Zackheim, Einstein's Daughter: The Search for Lieserl, Riverhead Books, 1999.


アインシュタインの伝記はすでに数多い。しかし、1987年よりプリンストン大学出版局から彼の著作集が刊行され始めて以来(現在8巻まで)、これまで未公開だった資料や新しい調査に基づいた、彼の私生活のいろいろな側面を「暴く」伝記がかなり出始めており、「アインシュタイン神話」のかなりの部分が書き変えられるであろう。ちなみに、パイスの有名な伝記『神は老獪にして・・・』(1982)は、未公開の資料をかなり読みこなして書かれた最初の伝記である。もちろん、アインシュタインの私生活がどうであったにせよ、彼の科学的な業績の値打ちが下がるわけではない。また、一般に「学者」といわれる人々が概して「身勝手」で「自己主張が強い」人種であることを知っている者にとっては、「学者の中の学者」アインシュタインに少々のスキャンダルがあっても大騒ぎすることはないかもしれない。しかし、世紀の大天才の裏側には、やはり隠されてきた事実や謎も多く、ミステリー並みのおもしろさがあることも否定できない。「裏側もの」の伝記の値打ちは、天才の陰でつぶされた人々に対するある種の「共感」と、隠されてきた事実に迫ろうとする「謎解き」の執念と努力とであろう。今回は、これらの点で学ぶことの多い二つの本を取り上げたい。

まず、背景として知っておかなければならないいくつかの事実がある。アインシュタインの死後、遺産の管理人として彼の名声を守ってきたのは、友人のオットー・ネイタンとアインシュタインの秘書だったヘレン・ドゥカスである。 アインシュタインとのつき合いが早いのはドゥカスの方で、彼女は、アインシュタインのベルリン時代、1928年4月より秘書として雇われ、アインシュタインのアメリカ亡命(1933年)にも付き添い、アインシュタインの二度目の妻エルザの死後(1936年12月)はアインシュタイン一家の切り盛りもこなした。雇い主に対する忠誠ぶりはまさに「秘書の鑑」とでも形容されるべき彼女は、1982年2月に85歳で亡くなったが、その直前に、アインシュタインの遺稿の管理は、アインシュタインの遺言に従ってすべてエルサレムのヘブライ大学に移されることになった。

ネイタンは、ナチスから逃れてプリンストンに来たドイツの経済学者で、アインシュタイン一家がプリンストンに落ち着くのを助けて以来、アインシュタインの腹心の助言者となった。彼は1987年の1月に93歳で亡くなったが、アインシュタインの個人的な手紙の出版や引用に対しては頑強に拒否し続け、多くの「アインシュタイン学者」と摩擦を起こして憎まれた。彼とドゥカスが1958年に一度は出版を差し止めた(アインシュタインの長男ハンス・アルバートと妻のフリーダがスイスで出版しようとした。Highfield & Carter, 268-269)、アインシュタインと最初の妻ミレーヴァ・マリッチの間の「恋文」54通が(3通をのぞいて)『アインシュタイン著作集』の第1巻に収録され出版されたのは、ネイタンの死後、1987年のことである。


 

さて、以上の背景のもとで、ハイフィールドとカーターの本は、主としてアインシュタインの女性関係を軸にした「暴露」ものである。彼らは、アインシュタインの女性関係について、ベルリン時代の家で住み込みの家政婦をしていた(1927-1932)ヘルタ・ワルドゥの証言を引き出している。アインシュタインは従姉のエルザと関係を持ち、ミレーヴァと二人の息子を結局離別する。ところが、エルザともうまくいかず、多くの女性関係があったらしいのである(Highfield & Carter, 204-209)。家政婦そのほかの証言はこれを裏づけるもの。しかし、精力的な暴露ものであるとはいえ、著者たちの専門的知識はかなりのレベルのもので、本全体の印象としても「適度の節度」をわきまえたものであると言えよう。女性関係の中でも、特に重視されているのが最初の妻ミレーヴァとの関係の追跡で、これは「恋文」の出版なくしてはあり得なかったであろう。

この「恋文」で明らかにされた一つの事実は、彼らの結婚に先立って女児が一人生まれ、その行方が不明であるということである。 この謎を解こうとした研究のうちで、最新のものが、二番目のザッカイム(著者は女性)の本にほかならない。彼女の調査は、女性の視点、ミレーヴァに同情的な視点からアインシュタインを見直し、ハイフィールドとカーターが二の足を踏んだ(内紛中の)セルビアにまで足を運び、ミレーヴァに関係する親族や友人の遺族にインタビューするだけでなく、出生記録、死亡記録、墓地や僧院まで調べあげた労作である。ただし、ザッカイムは科学についてはまったくの素人である(一読して明らか)。

ミレーヴァはセルビア人の裕福な公務員の娘で、当時としては例外的に数学と物理学の高等教育を修めた女性である。アインシュタインより4歳年長だが、彼とはチューリヒ工科大学の同級生である。われわれ普通の日本人にはヨーロッパの土地勘がまったく欠けているので、彼女の出身地と、彼女が大学教育を受けたチューリヒの位置関係がわかる地図(Zackheim の本より転載、赤字は内井の追加)を参照されたい。

彼女の家族は、当時のオーストリア-ハンガリー王国の南部、ヴォイヴォディナ地方のノヴィ・サドを本拠としていた。この町は、ドナウ川の北に位置し、ベオグラードからそれほど離れておらず、西側には、最近のユーゴスラヴィアの内紛で名前を知られるようになったクロアチア、ボスニアヘルツェゴヴィナがある。

たったこれだけの情報からでも容易に想像できるように、アインシュタインとミレーヴァとの結婚には大きな障害があった。アインシュタインの両親の猛反対である。ナチスの人種差別を持ち出すまでもなく、当時のドイツ人(アインシュタインの家族はユダヤ人だが、とにかくドイツ系)はスラヴ系の人々を低く見ていたし、ミレーヴァには骨盤の変形という(おそらく遺伝的な)身体的ハンデもあった。とくに、母親のパウリーネの反対ぶりは、1900年7月29日(?)づけアインシュタインの手紙で辛辣に記述されている。また、ミレーヴァの家族側でも、保守的なセルビアのしきたりによれば、二人の婚前旅行などもってのほか、家族の恥辱ものである。ところが、若い二人は、1901年5月5日にイタリアのコモで落ち合い(Zackheim, 1)、最悪の事態を招いてしまう。ミレーヴァは妊娠してしまうのである。この時期、アインシュタインは卒業したものの定職なし、ミレーヴァはまだ学業を終えていない。アインシュタインが同年末にやっとの事でありついた職は、ベルンの特許局の職員だった。

ミレーヴァは親元に帰り、翌1902年1月27日に女児を出産する(Zackheim, 37-8)。リーゼルと呼ばれたこの子は私生児である。マリッチ家では出生を教会に登録しない決定がなされた。才媛の誉れ高くスイスに留学させた娘が私生児を作ったとあっては、一族の名誉は形無しである。生後六ヶ月の乳児を残してミレーヴァはベルンに戻る。学校を離れた彼女は、二ヶ月ごとに出国し、二ヶ月待ってヴィザを更新しなければならない。こうした生活の後、アインシュタインの父親が亡くなる間際にやっと結婚の許しを与え、二人は1903年1月6日に結婚にこぎつけた。しかし、二人は娘を引き取らないし、娘に会いにも行かない。いったいなぜだろうか?(Zackheim, 45)

同年8月26日にミレーヴァはリーゼルが猩紅熱にかかったという知らせを受け取る。ミレーヴァは急ぎノヴィ・サドに帰るが、看病中に妊娠に気づく。長男ハンス・アルバートができたのである。この間のミレーヴァとアインシュタインの手紙にも謎が多い。リーゼルはどうなったのだろうか?この後、二人の間ではリーゼルはあたかも抹殺されたかのように話題に上らなくなる(Zackheim, 48)。しかし、「それならリーゼルは猩紅熱で亡くなったと考えればいいではないか」と主張されるかもしれない。ところがそうではないことを示唆する強力な証拠もあるので、これがアインシュタイン学者を含め、多くの研究者の間で一つの謎とされてきたのである。

その証拠とは、アインシュタイン自身がリーゼルの生存を信じている言動を示したことである。アインシュタインの渡米後、1935年になってイギリスで「アインシュタインの娘」と名のる女性が息子連れで現れ、オックスフォードでアインシュタインの知人に助けを求めた(Highfield & Carter, 92-93; Zackheim, 193, 222-224)。この女性はグレテ・マークシュタインという名のウィーン生まれのユダヤ人女優であることがじきに判明するが、彼女はリーゼルの生年、1902年生まれまで詐称していた。ごく少数の人しか知らなかったはずのリーゼルの情報をどこで入手したのだろうか?そして決定的なのは、アインシュタインが秘書のドゥカスを通じて探偵を雇い、マークシュタインの身元を調べさせたことである。リーゼルの死が明白なら、こんな面倒なことをする必要はない。こういった根拠から、リーゼルの早期死亡説と並んで「里子説」も出てくる。すなわち、猩紅熱から回復した後、リーゼルは他所で里子に出されたという説である。事実、ザッカイムの現地調査で、彼女はあるところから「リーゼルは、1903年のある日、ベオグラードから来たドイツ語をしゃべる婦人に連れていかれた」という証言をえている(Zackheim, 102-103, 239)。(ベオグラードには、ミレーヴァの親友だったヘレーネ・サヴィッチがおり、彼女はドイツ語を母国語としていた。)そこで、ザッカイムは、里子説の可能性もいくつか具体的に調査しているのだが、ここでは立ち入らない。アインシュタイン学者のうちにもこの説の支持者がいる(Highfield & Carter, 91, 93)。

実は、この事件に先立って、アインシュタインとマークシュタインの間には接点があった。1929年にマークシュタインは民話のレコード吹き込みをして、ベルリンの名士たちに送っている。おそらく、これに対して、エルザは1930年11月28日にマークシュタインに手紙を書いている。また、アインシュタインは1932年にマークシュタインに対して80マルクの振り込みをしているのである(Zackheim, 207)。

こういったたぐいの調査を事細かに書きつづっていくザッカイムの本は、途中で所々脈絡や筋書きがわかりにくくなる欠点はあるが、セルビア人の同僚や弁護士と共に実地調査した迫力がその欠点を補っている。ミレーヴァの一族を、父方と母方、何代にもわたって追跡した労も多とすべきであろう。彼女の一つの収穫は、彼女の調査で新たに発見されたミレーヴァの遺品の中に、書き込みがあるAugust Forel, Die Sexuelle Frage (1905)という本を見つけたことであった(Zackheim, 156-157)。ザッカイムの最終第7部では、この本にミレーヴァの手でマークされた文章から、ミレーヴァの関心事や夫婦関係についての推理が展開されるが、それは省略しよう。彼女が到達した結論は、次のように述べられている。

None of the four women I researched---Julka Savic-Popovic, Nada Maric (Sister Teodora), Anka Streim, and Grete Markstein---can be conclusively proved to be Lieserl. It is my belief that Lieserl Einstein-Maric, born with a mental handicap, died at the age of twnty-one months of scarlet fever aggravated by secondary invasive infections, such as septic shock or endocarditis or pneumonia, on September 15, 1903, the day of a solar eclipse, when the sun disappeared from the sky. (252)


アインシュタインと二人の息子との関係も、かなり無惨なものである──天才の父親をもった上に、離婚まで絡んでは無理もないこととはいえ。十代半ばで母親ミレーヴァの介添え役を強いられた長男ハンス・アルバートは、やがて父親に愛想を尽かし、進路、結婚問題ではアインシュタイン同様に親と真っ向から対立し、わが道を行く。ハンス・アルバートもやがてアメリカに渡り、カリフォルニア大学バークリ校の水力学の教授になるが、父親とはほとんど行き来がなくなる。年若いときには豊かな才能を見込まれていた次男エドゥアルトは、やがて精神に異常をきたし(分裂症と診断されている)、ミレーヴァに多大な心的肉体的負担をかけることになる。アインシュタインは、1933年、アメリカ亡命直前に面会したきり、二度と会っていない。

この時代、精神障害の子供を持った親は、しばしば悲劇的な結末を迎えている。例えば、アインシュタインのよき文通相手だったパウル・エーレンフェストは、1933年、妻で同僚だったタチアナと別居し、ダウン症の息子を射殺したのち自殺している(Zackheim, 238)。アインシュタインは、おそらく身勝手(負担は全部ミレーヴァに押しつけた)と無頓着が幸いしたうえに、名声が引き寄せた人々の善意まで引き出した(これは、もちろん彼の人徳の一部であろう)。例えば、チューリヒ在住の伝記作家のカール・ゼーリヒは、エドゥアルトの後見人まで買って出た(しかしアインシュタインは丁重に断った)のである(Highfield & Carter, 256-257)。エドゥアルトは1965年まで生き延びた。

アインシュタインの裏側は、表側に劣らず「豊か」である。これ以上の内容については、二つの本の本体を読むようおすすめしたい。


文献

『アインシュタイン愛の手紙』(大貫昌子訳)岩波書店、1993年。

パイス『神は老獪にして・・・』産業図書、1987年。

The Collected Papers of Albert Einstein, vol. 1, edited by Martin J. Klein et al, Princeton University Press, 1987.

The Collected Papers of Albert Einstein, vol. 5, edited by Martin J. Klein et al, Princeton University Press, 1993.


September 14, 2000. (c) Soshichi Uchii webmaster