京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol.11

update:2006年1月30日

  1. シンポジウム報告
  2. 第19回研究会報告
    • 京都市山科区安祥寺の梵鐘(五十川伸矢)
    •  
    • 唐時代の石灯篭について-日本安祥寺にある蟠竜石柱との比較-(韓釗)
  3. 第20回研究会報告   
    • 慶州白塔建立の謎をさぐる-11世紀契丹皇太后が奉納した仏教文物-(古松崇志)
  4. 今後の予定

14研究会「王権とモニュメント」では、月1回のペースで研究会を開催し、世界各地における王権とモニュメントの諸相について議論を深めるとともに、主たるテーマとして京都市山科区に所在する安祥寺の調査研究を文献・美術・建築・考古など多面的な分野から進めてきました。 今年11月にこれまでの研究・調査成果を総括し、安祥寺をテーマとするシンポジウム「皇太后の山寺-山科安祥寺創建の背景をさぐる-」を開催しました。当日は約100名の方にご来聴いただき、盛会裡に終了いたしました。

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京都市山科区安祥寺の梵鐘

五十川伸矢(京都橘大学教授)

京都市山科区御陵平林町所在の安祥寺に所蔵の梵鐘(坪井梵鐘番号99)は日本中世の鎌倉時代の定型化した銅鐘であり、鋳上りもきわめて良好な優品である。総高は110㎝、口径は61㎝。陰刻銘文によって、嘉元4年(1306)正月26日、河内丹南の鋳物師治部入道浄仏によって摂津渡辺安曇寺鐘として製作されたことがわかる。現在の大阪市にあったとみられる安曇寺に納められた鐘が、いかなる転変を経て、この安祥寺に落ち着いたかに関してはよくわからない。このたび、安祥寺のご好意で、梵鐘の調査を許可いただき、平成17年八月に実測図と拓本を作成し、細部の肉眼観察をおこなった。

本鐘は鎌倉時代の梵鐘として整った紋様意匠をもっており、龍頭や撞座の紋様意匠や乳の形状は、河内丹南郡周辺に本拠地置いた鋳物師たちに通有なものである。池の間の三面に銘文があり、第一区には、攝州渡邊安曇寺洪鐘であること、嘉元四年正月廿六日に、大勧進法橋上人位印昭・願主沙弥蓮阿のもと、鋳師河州旦南治部入道浄仏が製作にあたったことを記す。第二区・第三区には、三帰眞言・大日两部眞言・光明眞言・滅罪眞言を梵字で記し、諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅爲樂と締めくくる。

河内国丹南は、12~14世紀の梵鐘鋳造において、最も隆盛を誇った鋳造工人集団の本拠であることが古くから知られているが、故網野善彦氏は、彼らが燈炉供御人として蔵人所に出仕して牒を受け、各地におもむいて商業活動をおこなったことを明らかにした。また、最近の鋳造遺跡の調査によって、丹南の故地にあたる堺市・松原市一帯に所在する真福寺遺跡、余部遺跡、日置荘遺跡などから、鋳鉄鋳物の鍋釜の生産を基本として、青銅鋳物の梵鐘や仏具を鋳造していた中世前半の工房の遺跡が発見されている。

銘文にみえる鋳師治部入道浄仏については、「京都古銘選釈 二安祥寺鐘」では、丹治氏説をとるが、丹南の鋳物師が製作した梵鐘と比較検討すると、安祥寺鐘は、龍頭や撞座の紋様意匠が、丹南郡黒山郷河内助安が製作した滋賀県愛知郡秦荘町金剛輪寺鐘(坪井梵鐘番号95・乾元2年(1303年))に最も類似している。

梵鐘の外形は、引き板によって形成された外型によって鋳造されており、それは、駒の爪から撞座の上、撞座の上から乳の間の下部、乳の間の下から上帯の中央部、そして、上帯の中央部から笠形そして龍頭にいたる最上部の4段に分かれている。湯口の痕跡は、銘文第一区と第二区の間の縦帯の上方にあたる位置で、笠形部の龍頭の取り付き部の近くに1箇所認められる。最古の梵鐘と考えられている福岡県太宰府市観世音寺鐘、白鳳時代ごろのものと考えられる滋賀県竜王町龍王寺鐘では、ともに笠形の下部に2個の湯口がみられ、古代と中世の湯口のあり方が異なることも注意される。

唐時代の石灯篭について-日本安祥寺にある蟠竜石柱との比較-

韓釗(陜西省文物交流中心副主任研究員・京都大学文学研究科外国人共同研究者)

石灯籠は仏堂の前に置く献灯具である。また、寺の灯籠は、灯を絶やさず常に燃えつづけることから、長命灯と呼ばれる。唐時代の文献<隋唐嘉話>は、江寧県寺に晋時代の長命灯があり、隋の文帝が、陳国を滅ぼした際、その灯籠の古さに驚愕したと伝える。その長命灯は石灯籠であったと推測できるため、寺院に石灯籠を置く制度は、中国の両晋南北朝時代にまで遡ると考えてよい。 中国で石灯籠の形を備える遺品としては、山西省太原市北斉時代<西暦556年>の灯籠が最古の例である。しかし、その時代の寺院で灯籠を設置した場所については不明である。 唐時代には、仏堂の前に石灯籠を置くという制度が定着していた。唐・長安城にある西明寺<西暦658年>の発掘調査によると、石灯籠は仏堂の正面の参道中心線に一基のみ置かれていた。韓国や日本の例をみても、これが当時の普遍的な石灯籠設置法のようである。 今回の研究発表では、中国唐時代の石灯籠と韓国、日本同時代の石灯籠について検討し、石灯籠の様式と分類等の問題について、私見を述べたい。

(一)唐時代の石灯籠

現存する唐時代の石灯籠5点について述べる。

1、河北省廊坊地区隆福寺石灯籠   西暦688年の作品。高さ340センチ。漢白玉製。

2、山西省子長県法興寺石灯籠   西暦773年の作品。高さ204センチ。青石製。完形品。

3、西安碑林博物館の石灯籠   もとは陝西省則天武后の墓に近い、乾県に所在した石牛寺の灯籠。

4、西安市文物保護考古所石灯籠   1976年西安市出土。高さ143センチ。青石製。

5、黒竜江省寧安県興隆寺石灯籠   渤海国時代<西暦713年―926年>の作品。高さ600センチ。玄武岩製。完形品。

(二)京畿様式と地方様式

これらの石灯籠は、京畿様式と地方様式の2様式に分類できる。

1.京畿様式

西安碑林博物館収蔵品と西安市文物保護考古所収蔵品の2点がこの様式に属する。「京畿様式」の呼称は、この2例の出土地とデザインに由来している。 まず、この2点の出土地に注目する。1点は唐京畿地区から見つかったのもので、もう1点は長安城の町から出土したものとされる。以上の点から、この様式は、都地域の文化財遺産といえる。 次に、デザインについて述べる。この二点の石灯篭は、石柱に龍の装飾が施されている。周知のように、古代中国では、龍は権力のシンボルであり、唐時代には、龍と鳳凰の模様が、幸運のシンボルとなっていた。皇室用の金銀器では、龍のデザインは椀・杯・盆などによく見られる。石柱の装飾を観察すると、唐時代における龍の模様について、詳細に知ることが出来る。その模様は金銀器の龍の模様と同様、装飾としての用途以外に、権力のシンボルとしての意味を持つ。

2.地方様式

山西省子長県法興寺石灯籠、河北省廊坊地区隆福寺石灯籠、黒竜江省寧安県興隆寺石灯籠の3点がこの様式に属する。3点のデザインにはそれぞれ違いがあるが、石柱に龍が彫刻されていないという共通した特徴を持ち、京畿様式の石灯籠と根本的に異なる。 これら3寺院は都から離れており、地方仏寺であった。その寺院の規模は、京畿地区の寺院とは比較にならない程小さく、そこに置かれた石灯籠の造りも簡素化され、石柱には龍の模様が用いられない。 以上の点から、「京畿様式」と区別して「地方様式」とする。

(三)安祥寺の蟠龍石柱

1953年、日本の京都市山科区に所在する安祥寺から石灯籠一基が発見された。蟠龍石柱と呼ばれている。石柱に載せる中台、灯室よりも上の部分が失われているが、中国の例と比較して石灯籠の竿部と考えてよい。 蟠龍石柱は、安祥寺開祖の恵運自身が勧録した「安祥寺伽藍縁起資財帳」において、恵萼が唐から持ってきた「佛頂尊勝陀羅尼石童(塔)」に相当すると考えられている。仮に、蟠龍石柱がその一部ならば、本来、石灯籠として製作した石柱(竿)を利用して、その上に陀羅尼経を刻んだ塔身部あるいは幢身を安置した可能性が考えられる。 以上のように、安祥寺の蟠龍石柱は、そのデザインから、唐の文物であることが明らかとなった。また、中国の遺例から、長安城あるいは京畿地方でつくられた京畿様式に属する石灯籠と考えられる。

(四)まとめ

安祥寺の蟠龍石柱は残存状態がよく、京畿様式に属することがわかる。従って、安祥寺の蟠龍石柱は、皇室独自の印であると同時に、都の寺院の特別な地位をも表していると考えられる。

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慶州白塔建立の謎をさぐる―11世紀契丹皇太后が奉納した仏教文物― 

古松 崇志(京都大学人文科学研究所助手)

10世紀初頭、モンゴリア東部、大興安嶺山脈の南側を根拠地として勃興した契丹族は、耶律阿保機のもとに部族集団を糾合して契丹国を建国し、周辺地域に征服活動を行って、東は沿海州や朝鮮半島北部、西はモンゴル高原からアルタイ山脈方面、南は中国華北におよぶ広大な領域に広がる大帝国をうち立てた。契丹は、南方の華北にあいついで成立した五代・北宋、西方の西夏やウイグル、朝鮮半島の高麗などの諸政権と併存しながらも、10世紀から12世紀前半に至るまで、中央ユーラシアから東部ユーラシアにかけての地域における最強の国家として繁栄を誇った。

周知のとおり、契丹の歴史研究の根本的な問題は、文献資料があまりに貧弱なことである。そのため文献のみにもとづく研究で分かることは、おのずと限定されてしまう。それゆえ、契丹史研究のためには考古資料の活用が不可欠のアプローチとなる。こうした考古学のアプローチからの契丹史研究は、満洲国時代に日本人が都城、墓葬、窯跡、寺院建築などを含む契丹遺跡に関する調査を開始して本格的に行われるようになり、それまでまったく謎であった契丹文化について、多くの新知見が得られたのであった。満洲国が崩壊してから、新中国成立後の政治混乱もあり、契丹考古の調査・研究は停滞した。その後1980年代になってから、中国は改革開放路線に転じ、考古学研究が活況を呈するようになる。契丹考古学についても、特に1990年代以後、多くの石刻資料など文字資料を含む重要な大発見があいつぎ、これまでまったく知られていなかった多くの契丹史の史実が明らかになり、さらには契丹文化の特徴をよく示す新資料も多く得られた。こうした近年における考古資料の劇的な増加によって、契丹史研究は新たな段階を迎えつつあるのである。

今回は、契丹考古に関する近年の新発見の一例として、中国内モンゴル自治区東部の赤峰市の北方、大興安嶺山脈の南端、チャガン・スブルガ(白塔子)という集落の傍らの慶州城遺跡に現存する通称白塔と呼ばれる仏塔から発見された仏教文物について取り上げる。これについては、『文物』1994年12期号に調査報告が掲載されている。慶州とは、契丹国第六代皇帝耶律文殊度(廟号・聖宗)以下三人の皇帝が葬られた陵墓慶陵に付設された奉陵州で、11世紀前半の聖宗の崩御直後に造営が開始された。慶州城は12世紀半ばの金代には完全に放棄され、その後用いられることがなく、現在は完全に廃墟となっており、城壁と建物跡の基壇を残すのみであるが、城内で唯一契丹時代以来残る建造物がここで紹介する白塔である。この白塔は、1988年から1992年にかけて解体・補強修理が行われた。その際に、塔の頂の塔刹部分より五つに区切られた小部屋が発見され、そこには109基の小塔(法舎利塔)をはじめとして、仏像や銀・漆・磁器の皿に載せられた香薬、各種の染織などが安置されていた。そして、109基の小塔内部それぞれには袖珍本の木版本陀羅尼経典が収められていた。また、別の場所からは『無垢浄光大陀羅尼経』中の相輪橖陀羅尼を刻んだ金製および銀製の経板も発見された。さらに塔刹下部からは磚でつくられた碑刻が二つ発見され、そこには白塔造営の経緯、造営にかかわった官僚、僧侶、職人などの名前が列挙して刻まれていた。これら碑文の記述により、白塔は「釈迦仏舎利塔」という名前であり、重熙16年から18年(1047~1049年)にかけて、ときの皇帝(廟号・興宗)の生母で先代皇帝耶律文殊度(聖宗)の妻であった章聖皇太后によって建立された塔であることが判明した。さらに、白塔が『無垢浄光大陀羅尼経』という陀羅尼経典に忠実にもとづいて建てられた塔であることもまた明らかになったのであった。それでは、章聖皇太后はいったい何のためにこの塔を建てたのであろうか。

塔刹の五つに区切られた小部屋のうち、中央の部屋には109基の法舎利塔の中でもひときわ豪華な塔が安置されていた。その高さは、ほかの塔が20cmほどであるのに対し、40cmあまりと二倍ほどの高さを持ち、ひときわ大きな塔であることが分かる。この法舎利塔は銀製の薄い板でつくられており、表面には鍍金をほどこし、塔刹頂部には24個の真珠をつけたひもを口にくわえた鳳凰が乗っている。それゆえ『文物』報告では「鳳銜珠銀鎏金法舎利塔」という名前がつけられている。塔身側面上には門を中心にして左右には男女の供養人像が線刻されている。白塔が章聖皇太后によって建てられたことから、塔刹の中心に位置する小塔に描かれたこの供養人像は章聖皇太后と息子の皇帝耶律只骨(興宗)にちがいない。契丹皇帝・皇太后を描いた図像はほかにまったく残っていないので、きわめて貴重である。さらにこの法舎利塔の中からは長さ1mあまりで幅9cmほどの鍍金をほどこした銀板の『無垢浄光大陀羅尼経』経板が発見されている。そして、この経板の内容は、滅罪長寿の方法を説く『無垢浄光大陀羅尼経』のうち、サンスクリット真言を漢字音写した6つの陀羅尼呪すべてと、それぞれの陀羅尼呪の供養法や功徳の中からごく一部分を抄録したものであった。供養法や功徳を抄録した部分に、亡くなった人のために陀羅尼呪を唱え筆写すれば、その人物が悪道の苦しみを逃れて極楽に往生し、弥勒菩薩のいる兜率天宮、さらには悟りの境地たる菩提に至ることができることについて説いた一段落が含まれていることは注目に値する。『無垢浄光大陀羅尼経』中に説かれるさまざまな功徳・効用のなかでも、死者の救済が強調されているである。さらに注目すべきは、磚碑の記述より重熙18年7月15日、すなわち祖先を供養する盂蘭盆会の日を選んで、数多くの法舎利塔と陀羅尼経板が塔刹に安置されたことが分かる。章聖皇太后が塔を建立した目的には、『無垢浄光大陀羅尼経』という陀羅尼経の性格よりすれば、皇太后自身の滅罪長寿という個人的な願望もあったろうし、衆生の救済や国家の安泰といった願いも込められていたであろう。しかし、塔が建てられた場所が先帝を葬った慶陵の奉陵州であることを含め、以上の諸事実をふまえれば、亡き夫の先帝(聖宗)を供養することを第一の目的として釈迦仏舎利塔(白塔)を建立したとみるべきなのである。(本発表の詳細については、近刊の『遼文化・遼寧省調査報告書(仮題)』に掲載予定の拙稿を参照されたい)

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14研究会「王権とモニュメント」は、今年度を以て閉会いたします。2003年2月より約3年間にわたって毎月開催してきた研究会も、第20回を以て終了となりました。  閉会後にも一部活動を継続し、「安祥寺の研究Ⅱ」および、シンポジウム成果報告書「皇太后の山寺-山科安祥寺創建の背景をさぐる-」の発行を目指しております。