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NEWSLETTER No.12

2005/09/20

今後の活動予定
○2005/09/24 午後1時30分~5時30分 第15回「乾の会」
講演会「日本の漢学─中古から中世」
於京都大学百周年時計台記念館2階国際交流ホールⅠ
【講演者・題目】
本間洋一(同志社女子大学教授)
 「漢詩と和歌―「筧」をめぐって―」
尚永亮(武漢大学中文系教授)
 「義堂周信与杜甫―兼論前期五山文学対唐詩的受容和変異」
堀川貴司(鶴見大学教授)
 「新選集・新編集とその周辺―禅林で作られた中国詩の総集―」
(講演順)

活動報告2005/06~2005/08
○2005/06/27 午後3時~ 第二十七回「坤の会」
「永正七年正月二日実隆公條両吟和漢百韻」(三条西実隆、公條)
注釈検討第93句~

○2005/07/02 午後1時30分~5時30分 第十四回「乾の会」
国際シンポジウム「文化における〈自己〉と〈他者〉─異文化との接触─」
於京都大学文学部新館1階第1講義室
【講演】
マシュー・フレーリ(ハーバード大学大学院生)
 「他山の石─奥儒者成島柳北と西洋の出会い」
沈 慶昊(高麗大学校教授)
 「李朝後期の儒学における相対主義的観点の擡頭について」
孫 昌武(南開大学教授)
 「インド仏教の中国文化に対する影響」
沓掛良彦(東京学芸大学教授、東京外国語大学名誉教授)
 「中世におけるイスラームと西欧の融合─「ハルチャ」をめぐって」
(講演順)
【討議】
講演者および会場の出席者による討議


第十四回「乾の会」(2005/07/02)講演要旨

「他山の石─奥儒者成島柳北と西洋の出会い」
マシュー・フレーリ(ハーバード大学大学院生)

 成島柳北の若い頃の詩が数百首入っている写本『寒檠小稿』四巻を通じて、彼の
西洋に対する考え方の変遷を辿ることができる。それによれば、柳北の西洋との
出会いは、安政元年の頃だった。奥儒者としての見習いを正式に始めた十八歳の
柳北は、ペリーの二度目の来航を機に、黒舟とアメリカ政府が幕府に献上した鉄道
模型を題材とする長編の作品を二首詠んだ。こうした文明の利器の精密な設計を
認めたものの、二首とも同じような激烈な或いは暴力的な幻想で終わる。『寒檠小稿』
四巻に、他者である西洋に対するこうした威嚇的な言説が散見する。
 しかし、数年後になされたと思われる『寒檠小稿』の書き込みは、柳北の西洋に
対する考え方の変遷を物語る。例えば、ある詩から最も排他的な数十句を抹消した
例もあり、あるいは「蠻艦」という侮蔑的な語を、中立的な固有名詞「彼理」に
改めた例もある。こうした変化には様々な要因があったに違いないが、特にペリーに
対する名称の変化に関して言えば、柳北と大槻磐渓の交流が一つのきっかけと思われる。
二人の交流が頻繁になりつつあった時は、ちょうど磐渓がペリー『日本遠征日記』の
翻訳作業を監督していた時期にあたる。訳本『彼理紀行』の序で、磐渓は『詩経』に
由来する「他山の石」という隠喩を使って、ペリーの日記は、外からの視点を提供する
ため、一読に値すると論じている。
 この「他山の石」という言葉は、柳北がこの頃から西洋との交渉に於いて身につけた
折衷的な態度を、よく表していると思われる。柳北は、西洋をありとあらゆる物事の
模範にすべきものだとは思わなかったし、日本が自分の伝統を廃棄する理由とも
しなかったのである。西洋文化の要素を充分に考慮した上で、部分的に採択すれば
よいと主張し始めた。『詩経』にいう「他山の石」と同様に、それらの要素は、日本の
玉を磨くのに役に立つという考え方だった。
 十年後、西の方の「他山」=西洋の地を実際に踏んでみる機会を与えられた柳北は、
同じような態度でその旅に臨んだ。小林茂氏と乾照夫氏の研究が指摘するように、
柳北は帰国後の言論活動では、西洋における伝統文化や遺跡を保存する精神を、文明
開化時代の日本にとって示唆的なモデルとして紹介したが、外国の文物を積極的に
視野に入れようとする態度をさまざまな分野に発揮すべきだとも主張した。
 例えば、日本の仏教学者が西洋のインド学研究を参考にすべきだと呼びかけた。あるいは、
西南戦争が終わった時、西郷隆盛の敗北を、「自カラ是トシ自カラ信ジテ他山ノ石以テ
錯ト爲スヲ知ラザル」ことに帰した。また自由民権運動を支持する雑録を発表し、その
外来思想に触発されて自己認識を改めたことを論じた。
 柳北は、青年時代に抱いていた排他的な思想をやがて廃棄して、積極的に他者のよい
面を取り入れるべきだと主張し始めた。しかし「他山の石」という言葉が柳北に教えた
ことは、単なる取捨選択という次元だけに止まらなかった。他者との接触によって、そして
他者の視点から物事を考えようとする姿勢を採択することによって、自己を再認識できる
機会をも与えられるということにも柳北は気づいたのだった。


李朝後期の儒学における相対主義的観点の擡頭について
沈慶昊 Sim, Kyung-ho(高麗大学校 文科大学 教授)

 李朝に入ってから、15世紀末になると儒者が知識人層の独尊的地位を占めるように
なり、儒家関係の漢籍の印刷や著述が文化の中心となった。17、18世紀からは体制外の
「読書人」や女流(士大夫女性と妓女)、庶流出身の純粋文人、中人出身の知識人が現れて、
漢文文化を彩った。また、政治文化の変化に直面し、両班知識人の一部は自己批判をおこない、
「実学」や韓国陽明学を成立させた。しかし、全般的にみれば、李朝では「異学」に対する
警戒心が強く、知識人層は思想的に閉鎖性を帯びていた
 李朝の知識人は儒学、とりわけ朱子学の純潔性を保ちながら、現実との関わりを重んじ、
文化の高さを自負した。李朝の知識人は根本的に科挙を通じて朝廷に立ち、仁義の理念を
政治において実践することをめざした。
 李朝の漢文文化は朝廷の指導路線による規範性が強く、それから離れてより自由な文化
活動をこころみるようなまったく新しい階層は生まれ得なかった。李朝の漢文文化がもつ
そのような歴史的な特性は、出版文化が朝廷の統制により形作られた事実と深く関わりを
もっていた。
 経学の例をみれば、15世紀初の世宗が四書五経大全を公式のテキストとして採択し、
16世紀後半の宣祖が『朱子大全』の校勘と経書の諺解を行ったことで、李朝の朝廷は
儒学のなかでも朱子学に独尊的地位を認めた。李朝後期に清朝の考証学が受け入れられる
際には君王を中心とする朝廷の批判的検討が行われた。李朝の知識人は経学史学の理論を
当代の問題の解決に応用しようとする意識が強かったため、読書博学を土台にしながら
宋学の実践的側面を一層強調した。思想家の張維(1587-1638)は「我國則無論有識無識、
挾筴讀書者、皆稱誦程朱、未聞有他學焉…豈我國士習、果賢於中國耶? 曰:非然也。」
といった。大半の知識人らは朱子学の思想大系のなかに閉じ籠っていた。知識人らは
朱子学の純潔性を保ちながら、思想に関しては自己検閲をおこなった。李朝後期に
袁宏道の斬新な詩文が広く受け入れられたにもかかわらず、袁宏道などが本来性の
追求のために禅に深い想いをよせたことにほとんど注意が払われなかったことはその
一例であろう。
 もちろん、李朝の朱子学は人間と自然を凝視するための深奧な準拠を提供し、人間と
社会を救援しうる理念として作用した。清の侵略があった17世紀の半ば以後は、李朝の
民族主義的性向を強化してくれるプラス機能をはたした。しかしながら、すでに17世紀の
末になると、朱子学は李朝の思想界において教条的な地位を占めると同時に、社会的な
マイナス機能をも見せ始めたのである。おおくの知識人の関心は礼訟と名分論に限定されて
しまった。また、「学問権力」が形成され、相手の党派を極限的にまで攻撃する「党同
伐異」の風潮があらわれた。すなわち、大義の実践を標榜する特定の党派が(最初は
「西人」、それから西人より分化した「老論」)権力と官学を掌握するにつれ、社会
文化の開放と発展が著しく損なわれるようになった。
 しかし、この時期に、幾人かの知識人は、朱子学の独尊的地位を懐疑し、相対主義的
観点をもち、その観点を詩文に表明した。興味深いことに、それらの知識人の中には、
政治権力と学問権力をもった老論の学者と文人も含まれている。本講演は、その相対
主義的観点について様々な例を挙げながら本格的に考察したものである。
 相対主義的観点は次の四つの方向であらわれた。先ずは、朱子学と仏教の連続を
重視し、闢異端の対象であった仏教の価値を再評価したことが挙げられるが、それに
ついては老論の政治家で、朝鮮語で小説を書いた文人でもある金万重(号は西浦、1637-
1692)の著作、『西浦漫筆』を中心として考察してみた。それから、第二の観点としては
18世紀後半の文人朴趾源の『熱河日記』を通して、朱子学の闢異端論そのものに対して
懐疑する態度について考察した。第三の観点は、李朝後期経学論の変貌と限界を通じ、
宋学と漢学の折衷をはかるか、あるいは漢学に傾く傾向について考察した。それは
具体的にいうと、19世紀になってからの新傾向といってよく、古注の整理、毛奇齡・
顧炎武の経説の参考などの形であらわれたことである。最後には18世紀末に政局から
疏外され、あたらしい人間学を追求した学脈であった江華学派を中心とし、末流の
朱子学がもつ仮の本質を突き止めようとする姿について考察した。第一、第二の傾向を
代表する金万重と朴趾源は「老論」の知識人であり、第三の傾向は党色をとわず、
おもに京華の知識人の間で広まっていた。第四の傾向は、政治権力や学問権力から
疎外されていた少論の知識人らによって、一つの学脈として受け継がれた。
 以上の考察により、李朝後期の儒学における相対主義的観点の擡頭について、より
具体的な知見を示し得た ことが、本講演の意味である。


インド仏教の中国文化への影響
孫昌武(南開大学教授)
要旨執筆:副島一郎(同志社大学助教授)

 仏教が中国文化に与えた影響には大きく六つの点がある。第一には、仏教は中国に
新しい社会組織、すなわち僧団をもたらした。それは中国の伝統的社会集団とは構成
原理を異にし、しかも世俗権力の支配を受けなかった。そのような集団が、多数の
成員をもち大きな勢力を形成した。僧団は中国人に新しい生活の方式と人生の理想を
もたらしたのである。

 第二には、仏教は中国人の精神的あり方を大きく変えることになった。中国古代
思想の中心である天命思想では全ては天命によって決定づけられ、そこに個人の救済は
ありえない。仏教は厳密な体系的教理をそなえた個人救済の思想であり、しかも個人の
努力に重きをおく。輪廻思想では現在の状況は応報であるから変えがたいとしても、
将来は完全に自分の努力にかかっている。その考え方が宋代以降、体系性をそなえ、
自己の修養を重んじる新儒学を生む大きな淵源となったのである。

 第三に、仏教は精緻な哲理と厳密な論証に長けており、それが中国でさらに発揮
されることになった。多くの仏教経典が翻訳され、仏教思想に分析、批判が加えられる
ことによって、中国独自の仏教が形成され、すぐれた仏教思想家が輩出した。中国の
伝統思想は政治や倫理といった社会思想に重点があったが、仏教はそれ以外の諸々の
領域においても深い認識と厳密な体系を備えていたので、大いに中国思想を啓発し
発展させることになった。

 第四には、仏教の慈悲の精神である。とくに大乗仏教は、救済の可能性と機会が
何人も平等であることを唱え、徹底的な平等観を打ち出した。それが中国に入って、
中国の平等観念の理論的根拠ともなり、民衆が身分的抑圧に対抗するスローガンとも
なった。中国では大乗仏教の民衆救済という現世的性格と人本主義的側面とが強調され、
社会的救済事業の原動力となってきたのである。

 第五に、仏教は中国の工芸、建築、絵画、書道などの芸術分野、とりわけ文学の
発展に大きな役割を果たした。歴代の文人は仏教に親しみ、仏教経典の中には多くの
文学的作品があったので、文人たちは仏教経典から作品創作のヒントを得、また影響を
受けたのである。それは技術的なものにとどまらず、儒教の経学中心の時代にあって、
仏教は思想的枠組みを打ち破る為に大きな役割を果たした。また中国文学は元来、
虚構性に乏しかったが、空想力に富んだ仏教の影響を受けて以降、虚構性のある
小説などの作品が書かれることになった。

 最後に第六の点である。中国の諸民族の多くは仏教を信仰してきた。周辺諸民族は
中原に入ってくると、程度の多少はあれ、みな仏教を受け入れたのである。漢族と
諸民族は仏教をめぐる歴史的交流を通して、しだいに中華民族という「大家庭」を
形成したのである。それ以外にも、朝鮮、日本、ベトナムなどにも仏教は流伝し、
各文化圏が漢字文化圏として形成され発展する上で、仏教の果たした役割は非常に
大きなものがあった。


「中世におけるイスラームと西欧の融合─「ハルチャ」をめぐって」
沓掛良彦(東京学芸大学教授、東京外国語大学名誉教授)

 ヨーロッパにおける異文化接触という問題を考える上で、最も重要であり、また
興味深い場はおそらく、「アルアンダルース」と呼ばれた8世紀にも及ぶイスラーム
支配下のイベリア半島(スペイン)であろう。当時西方世界での最も高度な文化が
花開き、ヨーロッパ人の目には「驚異の国」「魔法の国」と映じていたイスラーム・
スペインは、イスラーム王朝の寛大な統治政策により、アラブ文化、ユダヤ文化、
モサラベ(イスラーム統治下のキリスト教徒)文化が共存し、時に融合・混交して
存在するという様相を呈していた。そのような三つの異なる文化、異なる言語が
融合した結果生み出されたのが、「ハルチャ」と呼ばれる特異な文学形式による
抒情詩であった。
 周知のごとく、711年にジブラルタル海峡を渡って怒濤のごとくイベリア半島に
侵攻したイスラーム軍は、西ゴート王国を滅ぼし、わずか3年あまりでイベリア半島の
大半を制圧した。以後11世紀から活発になるキリスト教王国によるレコンキスタ
(国土再征服)によって、1492年にイベリア半島におけるイスラーム最後の拠点
グラナダ王国が滅亡するまで、実に800年近くにわたって、イベリア半島は「イスラーム・
スペイン」であった。
 東アジア文化圏、インド亜大陸を別として、中世においては「ビザンツ世界」、
「イスラーム世界」、「ヨーロッパ(ラテン)世界」という三つの世界が鼎立して
いたが、この中で中世初期のヨーロッパが最も後進地域であった。これに対して、
8世紀以後のイスラーム世界では、本来は砂漠に住む素朴な遊牧民であったアラブ人が、
小アジア、エジプトを征服する過程でギリシア、インド、ペルシア、ユダヤなどの
先進文化を吸収発展させ、急速に高度な文化を築き上げた。ヨーロッパがギリシアを
忘れていた時代に、ギリシアの科学・医学・哲学などを継承しヨーロッパに手渡した
のはアラブ人であり、また文化語としてのアラビア語を精錬、完成させて大文学を
生み出したのもアラブ人にほかならなかった。一般に異文化接触がなされる場合、
文化は高きから低きへと流れるのが常である。また言語現象から見れば、優越した
文化の言語が、より劣ったあるいは遅れた文化の言語を圧倒し、これを吸収する
という形をとる。
 イスラーム・スペインにおける異文化接触は、中世ヨーロッパによるイスラーム
文化の一方的な学習と吸収という形をとっていた。衰退と不振のさなかにあった
中世ヨーロッパに比して、先進文化の持ち主であったアラブ人は、イベリア半島
制圧と共に、言語的にもこの地域をほぼ完全にアラブ化し、モサラベもロマンス語
(原スペイン語)を忘れて、アラビア語によって文化活動をおこなうという状況に
あった。このようなイスラーム支配下のアルアンダルースにあっては、12世紀頃に
成立したとされる叙事詩『エル・シードの歌』以前にはロマンス語による文学は
存在しなかったものと考えれていたが、1948年に東洋学者S.M.スターンが、10世紀頃
イスラーム・スペインで生まれた「ムワシャッフ」と呼ばれる叙情詩の終結部である
「ハルチャ」の中に、アラビアを交えたロマンス語で書かれているものがあることを
発見し、これがアラブ人、ユダヤ人、モサラベという三つの異なった民族が重なり合い、
三つの異なった言語(アラビア語、ヘブライ語、ロマンス語)が融合して生まれた
きわめて特異な文学であることが判明した。
 「ムワシャッフ」は古典アラビア語で書かれたが、その終結部である「ハルチャ」は
俗アラビア語(日常アラビア語)またはアラビア語と混交したロマンス語で書かれるのを
常とした。メネンデス・ピダルが主張するように、ハルチャが文字化される以前の、
口頭による伝統的な民衆詩であるとすれば、これはヨーロッパにおける最初の俗語詩と
されるトルゥバドゥールの詩(12世紀に発生)に先行するロマンス語詩が存在した
ことになるが、これに関しては異論もある。
 いずれにせよ、ハルチャは中世のイスラーム・スペインにおいて三つの異なる文化、
三つの異なる言語が異種交配し、融合したところから生まれた文学である。異文化の
直接接触から生まれ、異文化の融合・混交状態を如実に示す一現象として、まことに
興味深いものがある。


◇編集後記◇
 ニューズレター第12号をお届けいたします。
 9月24日に開催致します講演会は、中古から中世にかけての日本の漢学をテーマと
するものですが、東アジア全体を視野に入れた幅のあるお話しがうかがえるようです。
多数御参加賜りますようお願い申し上げます。
(福井記)



京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム
「極東地域における文化交流」
kanwa-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp