ニューズレター第10号

 ニューズレター第10号をお届けします。今回は、昨年12月に行われた研究会の彙報を内容としております。


■ 第六回研究会彙報

 第六回研究会が、昨年2004年12月17日(金曜)の18時30分より京都大学文学部陳列館で行われました。報告者は松浦茂氏(東洋史学)、コメンテーターは岩崎奈緒子氏(日本史学)でした。以下、報告とコメントの要旨を掲載いたします。


  松浦 茂「『皇輿全覧図』の作製とエゾ問題の展開」

 清朝の『皇輿全覧図』は、科学的な測量にもとづく中国で最初の地図である。そもそも康煕帝が、このような地図を計画したきっかけは、イエズス会士に北京周辺の地図を試作させて、出来映えの素晴らしさに驚嘆したためといわれる。『皇輿全覧図』の仕事が始まったのは1708年で、10年後の1718年に完了した。その間イエズス会士たちは、重たい観測機器を担いで、中国本土はもとより、遠くはアムール地方、モンゴル、中央アジアまで、測量して回ったのである。

 『皇輿全覧図』の作製に携わったイエズス会士たちは、宗教家であると同時に優れた科学者であった。かれらは行く先々で、科学者の目で事物を観察し、また研究を行なっている。かれらが残した報告書は、単なる旅行記というよりは、科学者の研究論文に近い内容を含む。

 『皇輿全覧図』とイエズス会士の報告書は、ヨーロッパへ送られて、18世紀の東アジア地理学に大きな影響を与えた。ここでその一例として、ヨーロッパにおけるエゾ問題の展開について述べてみたい。

 ところで『皇輿全覧図』の作製時にこの問題を研究したのは、レジスであった。かれは沿海地方がエゾであることを証明するために、1709年になかまとともに沿海地方に行って、測量と並行して住民の調査を実施した。しかし沿海地方にアイヌは居住しなかったので、レジスは沿海地方とエゾとは無関係であると結論づけた。なおその途中でレジスは、アムール川河口に大きな島(サハリン)があることを聞き、今度はその島がエゾではないかと推測した。二年後に満洲人たちが、かれに代わってその島を調査したが、かれらはアイヌと接触することができず、そのためにレジスは、その島もエゾではないと断定したのである(註1)。この結果『皇輿全覧図』には、「く」の字型のサハリン北部が存在するだけで、その南方は空白とされている。

 その後イエズス会士は、『皇輿全覧図』のコピーをフランスに送った。それは、1725年にフランス国王に伝えられ、それからデュアルドの手にわたった(註2)。デュアルドはこれを、自らが編纂していた『中華帝国及び中国領タルタリアの地理的・歴史的・年代記的・政治的・物質的な記述(中国誌と略称)』(1735年、パリ刊)に入れることを考え、その編集を新進の地図製作者ダンヴィルに依頼した。ダンヴィルは、『中国誌』のために特殊図(la carte particulière)38枚と一般図(la carte générale)4枚を作製したが、そのうちの特殊図においては、原図を忠実に再現したのに対して、全体図ともいうべき一般図では、原図の一部に修正を加えている(註3)。すなわちエゾ問題に関して、「中国領タルタリアの特殊第二葉」では原図通りに、エゾを描かないのに、「中国領タルタリア一般図」においては、サハリン(北部)と本州の間に、エゾとエゾガシマの二島を置く。しかしダンヴィルは、この自らの考えにも確信がもてなかったらしい。後にはエゾを大陸の東海岸に接続させる別の地図を描いた。

 これよりさき『皇輿全覧図』は、ロシアにも送られていた。1720年末から1721年初めまで北京に滞在したイズマイロフの使節が、1組の『皇輿全覧図』を本国に持ち帰ったという(註4)。ロシア科学アカデミーにいたフランス人地理学者ドゥリルは、1731年に元老院に提出した北太平洋地図の中で、『皇輿全覧図』に現れる海岸線とベーリングの地図にみえる海岸線を結合し、西太平洋にイエズス会士の描く「く」の字型のサハリン(北部)と、巨大なエゾ(北海道とサハリン南部をくっつけたもの)を置いた。またロシア人の地図製作者キリロフも1734年にロシア全図を作製し、その中で同様のエゾを描いている。

 以上のように『皇輿全覧図』から、二系統のエゾ図が新たに現れたが、ヨーロッパではダンヴィルの構想よりも、ドゥリル・キリロフの構想を支持するものが多かった。とくにそれは、フランスで広がりをみせた。フランス人ラペルーズが、1787年に日本海を航海したときに、かれはドゥリルの系統を引くビュアシュの西太平洋図を持参しており、それによってこの海域を捜索した。その結果ラペルーズはサハリンの西海岸を明らかにし、エゾ(北海道)はその南にあり、その間に宗谷海峡が存在することを発見した。またイギリスのブロートンは、1797年にエゾ(北海道)の西海岸を北上して、その海岸線と宗谷海峡を確認した。こうしてエゾ問題は、18世紀末には終局を迎えたのである。

註1 拙稿「一七〇九年イエズス会士レジスの沿海地方調査」(『史林』第84巻第3号、2001年)第2,3章を参照。/註2 A.Gaubil,Correspondance de Pékin,1722-1759,Genève,1970,p.302./註3 J.B.du Halde,A Description of the Empire of China and Chinese-Tartary,together with the Kingdoms of Korea, and Tibet,vol.1,London,1738,Translator’s Preface,pp.2-4.なお部分図38枚の中には、ベーリング作製のシベリア地図も含まれるとみられる。/註4 L.Bagrow,A History of Russian Cartography up to 1800,Ontario,1975,p.122.


  岩崎奈緒子「松浦茂氏報告へのコメント」

 一般に、日本における北辺の知識は、天明期の最上徳内らの蝦夷地探検にはじまり、19世紀に入って幕府主導の調査によって飛躍的に増えたとされる。その点に疑義をはさむ余地はないが、しかしその評価は、松前藩の地理認識を軽視する傾向と表裏の関係にあるように思われる。コメントでは、天明元年(1781)年に成立した松前広長の『松前志』を素材に、幕府の蝦夷地への関心が高まる以前の松前藩の北方認識について簡単に紹介した。

 『松前志』には古今の資料をひもといて北辺地域の地理について考察した部分がある。それによれば、17世紀半ば頃には、カラフト北辺に居住する二つの集団とその違いについて大まかではあるが把握し、18世紀前半には、サンタン交易の経路や担い手についての知識を持っていたことがわかる。また、本書は、西洋人や幕府にとって未知の世界であったカラフトについて、大陸とは海を隔てた嶋とする説を、複数紹介している。カラフトは正保の国絵図でも嶋として描かれており、カラフトを嶋と考えるのが、松前藩では古くからの有力な見解であったことがうかがえる。藩による調査が行われたのはカラフトのせいぜい南半分までであったので、上記のような地理認識は、すべて原住者たちからの情報によって構成されたものと推測される。

 松前藩は、北辺についての地理を、科学的とはいえないにしても、アイヌからの情報をもとに、おおまかにせよ把握していたといえるであろう。


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