第十回研究会

中国戦国時代における「四夷」観念の成立

吉本道雅

発表要旨

 戦国前期に初見する「四夷」観念の前提となる異民族の辺境化はいかなる過程であったのか。「四夷」観念の成立が、その後の華夷関係をいかに規定していったのか。これらの問題を解明するためには、西周・春秋期の四夷の状況を確認しなければならない。本発表は、出土文字資料および同時代性を主張しうる文献に対象を限定することで、西周・春秋期の「四夷」に関わる確度の高い知見の獲得を図るものである。

 1「夷」 西周金文では、「夷」は東方・南方とくに淮水流域の異民族を指すことが多いが、??を「犬夷」「串夷」と称する『詩』の事例によれば、本来、異民族の汎称である。TB大盂鼎は「邦」「夷」を区別するが、VA宗周鐘・駒父?には「夷」の「邦」すなわち国家が見える。「夷」に関わる金文には銅の鹵獲・賜与が頻見し、華夏の夷との交渉は、銅の獲得に大きく動機付けられていた。西周王朝滅亡後、晋文侯(前780-前746)・昭侯(前745-前739)・鄭荘公(前743-前701)・斉桓公(前685-前643)・魯僖公(前659-前627)・宋襄公(前650-前637)らが淮域進出を図った。魯について『詩』魯頌/?水・?宮や『書』費誓がある。宋襄公は、曾伯p?に淮夷遠征が見える?君を牲殺し、その東夷への影響力を奪取したが、泓の戦(前638)で楚に敗れる。これ以後、『論語』子罕「九夷」以外、「夷」はほとんど見えず、『春秋』にも昭4(前538)「淮夷」が一見するだけで、『左伝』にも楚に関連する記述に限定される。「夷」の居住域が楚の勢力圏に入り、中原への情報が絶たれてしまったのである。

 「夷」の消滅の今一つのより重要な原因は、「夷」が国家を形成し、資料的に「夷」と明示されなくなったことがある。『左伝』は、呉・越のほか、「夷」系の小国を「蛮夷」と蔑称する。これら諸国の国君は春秋金文では「王」「公」「侯」「伯」を自称するが、『春秋』は「子」と貶記する。『礼記』曲礼下「其在東夷・北狄・西戎・南蛮、雖大曰子」は、『春秋』の「子」の一つの意味を正しく指摘している。『春秋』は「夷」系国君を「国号+爵」と記すことで華夏諸国に準ずる国家として認めながらも、爵を「子」に貶記して、その出自を暗示しているのである。一方、「子」を五等爵の一とする『左傳』には貶意がなく、戦国前期には「夷」の出自が日常的に意識されない程度に華化が進行していたことを知る。「子」の貶意を明示的に否定したのは、戦国中期、前4世紀後半の『孟子』万章下「天子之制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等」である。孟子は、孔子の出身地・魯の隣国たる鄒の出身を誇るが、その鄒がかつて「蛮夷」と蔑称された?であったことは、この間の華化の徹底を如実に物語る。

 2「蛮」 「蛮」は西周VA戎生編鐘に「蛮戎」として初見する。VBの??出現を契機に、東方・南方の異民族を専ら指すようになっていた「夷」に代わって異民族の汎称となり、宣王5年(前823)兮甲盤は淮夷を、12年(前816)?季子白盤は??を「蛮」と称し、『詩』小雅/采zは楚を「蛮荊」と、大雅/韓奕は「北国」の「貊」を「百蛮」と称する。『竹書紀年』に拠る『後漢書』南蛮西南夷伝は、晋文侯南征に関して淮夷を「蛮」と称し、魯僖公に関わる『詩』魯頌/?宮には「蛮貊」が見える。さらに秦出子(前703-前698)・晋景公(前599-前581)・秦景公(前576-前537)製作器には「蛮方」「百蛮」「蛮夏」が見える。

  楚を『詩』小雅/采zは「蛮荊」と称し、魯頌/?宮は「荊舒」を「戎狄」と並列する。楚君は?冒(前760-前734)以降、王を自称したが、『春秋』は「楚子」と貶記し、「蛮」の出自を暗示する。楚地で成書した『左伝』は楚を異民族とする言説を排除するが、『孟子』滕文公上が楚人許行を「南蛮鴃舌之人」と称し、『公羊』『穀梁』が楚を「夷狄」とするように、その出自は一貫して意識されつづけた。しかし、『春秋』はすでに楚を華夏諸国に準ずる国家として扱い、『孟子』梁恵王上は楚を「四夷」と区別する。

 『左伝』における具体的な民族名としての「蛮」は楚関係の記述に専ら見える。「蛮夷」も『左伝』に初見し、呉・越や「夷」系小国の蔑称か、やはり楚関係の記述に限定して出現する。「夷」系小国のうち、杞(前445)・?(前431)は楚に、?(前414)は越に併合され、呉(前473)を併合した越も、『左伝』の成書する前4世紀前半には混乱に陥り、やがて楚に併合される。『左伝』が楚地で成書したことを考慮すれば、「蛮夷」は本来、楚が従属する異民族を汎称する語彙であったと思われる。

 『左伝』が「蛮夷」と蔑称する諸国は、国君が「国号+子」の形式で記述されることで、華夏から国家として認証されていたが、戦国後期、『国語』周語上・『荀子』正論の五服説において、華夏により近いものとして「蛮夷」を「戎狄」と差異化する言説は、『左伝』の「蛮夷」に基づくものであろう。

 3「戎」 「戎」の原義は兵器で、敵対的な異民族の汎称に引申する。VA戎氏編鐘「蛮戎」の「戎」は汎称であり、具体的な民族にはUA班@「東或Q戎」・臣諫@「戎」があり、UBa鼎一「淮戎」・a@一「戎」は淮夷を指し、『書』費誓に「徐戎」が見える。??はVA・VBの交に初見し、多友鼎・不期@は??を「戎」と称する。多友鼎には??の戦車鹵獲が見え、??は華夏と同様に戦車戦を行っていた。『詩』大雅/緜「混夷」・皇矣「串夷」・『左伝』閔2「犬戎」の「混」「串」「犬」は「?」と発音が近く??を指す。『詩』には小雅/采薇・出車・六月・采?など??が頻見し、周王朝への衝撃の大きさを物語る。「夷」が南方・東方の異民族に頻用されていたため、「混夷」「串夷」ではなく、「犬戎」が定着し、ついで「戎」は、『詩』小雅/出車「西戎」の如く、西方異民族の汎称ともなる。遠祖に「戎胥軒」をもつ秦もまた戎の一部族であったが、秦仲(前844-前822)・荘公(前821-前778)は宣王の命で西戎と交戦した。宣王・幽王期の王朝の「戎」との交戦は『竹書紀年』を引く『後漢書』西羌伝に見える。西周王朝滅亡の前後より、渭水流域ではすでに戎の諸族が自立し、豊王・亳王など王号を称するものや、蕩氏・彭戯氏など国家に次ぐ政治組織「氏」をもつものが『史記』秦本紀に見える。

 地名などを冠した「戎」は『左伝』では、渭水から伊水・洛水流域の民族集団の呼称として頻見する。戎は「田」を有し、徐吾氏・蛮氏・姜戎氏・陸渾氏など「氏」級の政治組織をもち、驪戎男・戎子駒支・蛮子/戎蛮子などその首長は「子」「男」を称した。これらは戦国前期までには晋・楚に併合された。

 これらとは別に、『左伝』桓13(前699)・文16(前611)には楚地の「戎」が見える。『春秋』には済西の戎と仮称される「戎」が見える。『左伝』の「北戎」は、済西戎が鄭の視点からかく称されたものであろう。渭水から伊水・洛水の「戎」が、華夏諸国と同様の戦車戦に従事したのに異なり、北戎は歩兵戦に従事した。済西戎は『春秋』荘26(前668)、北戎は『左伝』僖10(前650)を最後に唐突に消滅し、代わって「狄」が出現する。済西戎・北戎の一部は「狄」に吸収され、一部は、『左伝』哀17(前478)に見える衛の「戎州」の如く、諸侯国の領域内に孤立したものであろう。さらに今一つの「戎」である山戎は、斉桓霸業との関連で戦国後期以降の文献に喧伝されるが、春秋経伝の同時代的記述においては、一回的な出現でしかない。

 4「狄」 『春秋』荘32(前664)に初見する「狄」の原義は「遠」で、「遠方に駆除する」の意に引申し、やはり敵対的な異民族の汎称である。「狄」は晋の領域の西・北・東に広範に分布した。『春秋』では、文13(前614)までは「狄」しか見えないが、宣3(前606)に「赤狄」が、宣8(前601)に「白狄」が出現する。『左伝』には僖33(前627)に「白狄子」が見える。晋は対狄戦のために僖28(前632)に歩兵部隊「行」を編制したが、僖31(前629)にはこれを戦車部隊「軍」に改編している。このころ「狄」の一部が政治的結集を進め、華夏に倣って城居し、戦車戦を導入したものであろう。

 前594〜前588年に晋に併合された「赤狄」は、?氏を中心に、甲氏・留吁・鐸辰・?咎如などから構成され、「衆狄」を服属させていた。?氏・甲氏は「氏」級の政治組織をもち、?氏には「子」の称号をもつ首長・?子嬰児があり、晋と通婚していた。

 「赤狄」「白狄」登場以後も、『春秋』成12(前579)には晋が「狄」を破ったとあり、『左伝』昭元(前541)には晋が大原で「無終及群狄」を破ったとある。襄4(前569)には、「子」の称号をもつ「諸戎」「戎狄」の首長・無終子嘉父が見える。他の「戎」が黄河右岸にあったこと、『左伝』の晋関係の記述が、「戎」「狄」を混用することを考慮すれば、襄4の「諸戎」は昭元の「群狄」と同じものであろう。「群狄」は、狩猟に従事し、歩兵戦を行う生活様式を保持したが、晋に抗して無終を中心に結集したのである。

 「白狄」は『春秋』では襄18(前555)、『左伝』では襄28(前545)に終見し、『春秋』昭12(前530)に「鮮虞」が出現する。二字名は華夏との一定の差違を保留するが、「狄」を附さないことで華夏諸国に準ずる国家であることを認めている。「鮮虞」も複数の政治組織の連合体で、『左伝』には鮮虞に属する肥子緜皐・鼓子鳶?など「子」の称号をもつ首長が見える。『左伝』定4(前506)には戦国中山国の前身である「中山」が初見する。

  東夷・北狄・西戎・南蛮の表現は、戦国前期、前4世紀前半の『礼記』曲礼下に初見するが、当時の中原において、蛮夷戎狄はすでに華夏に併合され、あるいは華夏諸国に準ずる国家を形成していた。現実にもはや存在しないからこそ記号化されえたのである。異民族を蛮夷戎狄で代表させることは、曲礼が成書した魯地に既存の言説に依拠した。戎・狄は、『詩』魯頌/?宮「戎狄是膺」に見え、『春秋』に登場する異民族のほとんどであった。蛮・夷は、『詩』小雅/采?「蛮荊」・魯頌/?宮「淮夷蛮貊」や、『論語』の「夷狄」「蛮貊」に見える。東西南北への配当も、「東夷」は西周VB金文から『左伝』の年代記的記述にまで、「西戎」は『詩』小雅/出車に見える。「北狄」「南蛮」は、『春秋』の狄が晋の西方・北方・東方、『左伝』の「蛮夷」が東方・南方に当たることから配当されたものである。

  「四夷」は、華夷の空間的区分を含意し、異民族を内包しない華夏の「領域」としての「中国」の理念的な確立を示す。華夏を「中国」に位置づける空間理念を前提に華夷関係のあり方が構想されていく。『左伝』では、「四裔」に居住するものが四夷とされ、華夷の別は原理的に克服されえないが、戦国後期の『公羊』『穀梁』は華夷の可変性を強調する。華夷の別を超えた領域内部の高度の均質化を方向付ける、秦の郡縣制の如き支配装置がこの時期に普及しはじめ、領域支配が高度に強化されたことに呼応する。

 しかし、集権的で均質な領域支配には限界があり、戦国中期以前に儒家において確立された、華夏内部さらには四夷に対する封建制に基づく緩やかな支配が一方では主張されつづける。戦国後期以降の畿服説では、四夷が華夏と同様に貢納を負担し、華夷の差違は量的なものとなる。天子の支配力に比例する職貢の質量が王畿からの距離に従って段階的に漸減する、無理な均質化を拒否する構想でもある。かく仮構された言説が逆に前漢以降の現実の華夷関係を規定していく。

 同じく戦国後期以降、儒家の礼楽に対する批判装置として四夷を肯定的に記号化した言説や、礼楽の原理的な普遍性を否定すべく、礼楽の及ぶ天子の支配領域としての「天下」「海内」の外の世界を想定する言説も出現する。

 これら様々な理念を時系列的に整理した上で、秦漢以降の現実の華夷関係との間の相互作用を解明することが、今後の課題となろう。

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