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Spacetime

Galilean Relativity

Galileo is said to have performed experiments of falling body on this Leaning Tower, around 1589, but this may well be a fiction. He did perform experiments on a leaned plane, because measurements of velocity etc. were much easier that way.

In the following, the law of motion, combining a vertial fall and a translational (or circular) motion, is discussed; and Galileo clearly recognized a "principle of relativity" of motion.

Photo by S. Uchii, May 24, 1996.


ガリレオの相対性

近代物理学において空間と時間の問題が現れてくるもっとも典型的な場面は、物体の運動を扱う「運動学」あるいは「力学」とよばれた分野であろう。運動の法則が、例えば運動の方向によって変わるようなら、「均質」な空間はかならずしも前提できないのである。ガリレオの主要な論的だったアリストテレス派の運動学では、まさにそうであった。ここで、科学の歴史をある程度視野に入れた議論をするためには、「運動学」と「力学」の区別に注意しておかなければならない。標準的な理科教育を受けたわたしのような者は、ふつう「力学」といえば現代の力学の教科書での扱いしか知らないので、例えば「ガリレオの運動学」と聞くと、直ちにこれを「力学」と読み替えてしまう。しかし、ニュートン以前のガリレオのような時代にあっては、運動学と力学とは同一視できない。

「運動学kinematics」とは、運動そのものの記述や計算法を言い、運動の原因や「力」には必ずしも言及しない。この「力」の概念は歴史的にかなり複雑であり多義的であるが、それを無視して一言でいうなら、運動の記述や説明を「力」の概念に訴えておこなうのが力学とよばれる。

ガリレオは運動や力学の「相対性」の問題をそれと名指して論じたわけではない。しかし、「大地の不動性」についての「アリストテレス的論証」を論駁するところで、物体の運動は、その運動が生じている基準系(例えば、等速運動をしている船の上、あるいは大地の上)の運動状態(一様運動であるかぎり)には依存しないという主張として展開されている。「物体の運動」と言ったが、これは「運動の法則」と言い換えても基本的な趣旨は変わらない。 この主張が出てくる脈絡を『天文対話』(『二大世界体系についての対話』)から抜き出してみよう。以下では、ガリレオの主張を代弁するサルヴィアチが、まずアリストテレス派の言い分を次のように要約してみせる。

サルヴィアチ ・・・重い物体は高いところから下方に落とされると大地の表面に垂直な直線に沿って進みます。これが大地は不動であるということの議論の余地のない論証とみなされています。というのは、もし大地が日周運動をするならば、塔の頂上から石を落下させると、塔は大地の回転によって運ばれていますから、石がその落下に費やす時間に塔は何百腕尺も東に進み、石は塔の根元からそれだけの距離間をおいて地面に着くはずです。この出来事はもう一つの経験で確認されます。すなわち鉛の球をじっとしている船のマストの頂上から落とすのです。そしてそれが落ちたマストの脚近くにしるしをつけます。しかし船が走っているときに同じ場所から同じ球を落とせば、その落ちた場所は鉛の落下時間に船がさきに走っただけの距離をおいてさきの場所から離れているはずです。(『天文対話』第二日、青木靖三訳、岩波文庫上、193)

この議論は、すでに近代の力学を知っているわれわれにはばかばかしく見えるかもしれない(船や大地の加速度運動ではなく、等速運動が前提されていることに注意)が、「慣性の法則」を運動の法則として認めるか認めないか、あるいは慣性による運動と落下運動とをどのように合成するか、という、ガリレオの運動学の基本にかかわる重要な論点をふくんでいる。(なお、「腕尺」とはブラッチョという古い長さの単位に当てた訳語。1ブラッチョは、約58.4センチ。)次図を参照。



このあと、関連する議論へと話が進んだのち、サルヴィアチはアリストテレス派のシムプリチオに対して、次のように念押しをする。

サルヴィアチ 君のいわれるのによると、船がじっとしているときは石はマストの根元に落ちる、また船が動いているときは、石は根元から離れたところ落ちる、だから逆に、石が根元に落ちることから船のじっとしていることが推論され、離れて落ちることから船の動いていることが論証されるというのです。また船について生じることはやはり大地についても起こらねばならぬから、石が塔の根元に落ちることから地球の不動性が必然的に推論されるというのです。これが君の議論ではありませんか。

シムプリチオ その通りです。短くなったので非常にわかりやすくなりました。

サルヴィアチ ではいって下さい。もし船が非常な高速で進んでいるとき、そのマストの頂上から放たれた石が、その船のなかの、船がじっとしているときに落ちると正確に同じ場所に落ちるとすれば、この落下はその船がじっとしているか進んでいるかを確かめるのになんらかの役に立ちうるでしょうか。

シムプリチオ まったく何の役にも立ちません。それはちょうど、たとえば脈拍のうっていることからある人の眠っているか目覚めているかが知り得ないのと同様です。というのは、脈は眠っている人でも目覚めている人でも同じようにうつのですから。(『天文対話』第二日、青木靖三訳、220)

対話がさらに進んだのち、サルヴィアチは、運動の相対性の原理と、「大地の不動性」が運動の観察によっては論証できないことを、次のようにまとめる。

君がたれか友人と大きな船の甲板の下にある大きな部屋に閉じこもり、そこへ蠅や蝶やそれに似た飛ぶ小動物をもってゆき、また魚を入れた大きな水の容器をおき、また高いところに何か小さな水桶を吊し、その下におかれた口の狭い別な容器に水を一滴一滴こぼします。君は船をじっとさせて、それらの飛ぶ小動物がどのように同じ速さで部屋のあらゆる方向に進むか、また魚がどのように無差別にあらゆる方向に進むか、また静かに落ちる水滴すべてがどのように下におかれた容器に入るかを熱心に観察して下さい。また君が友人に何か投げるとき、距離が同じであればある方向の場合は他の方向の場合より強く投げねばならぬということはありません。また足をくっつけて跳べば、どちらへ跳んでも等しい距離を跳ぶでしょう。船がじっとしている間はそうなるということには何の疑いもありませんが、これらのことを熱心に観察したならば、船をお望みの速さで動かしなさい。そうすると、(この運動が斉一的であり、あちこち揺れないかぎり)君はさきにあげた出来事すべてにわずかな変化も認めず、またそれらのどれからも、船が進んでいるかじっとしているかを知ることはできないでしょう。(『天文対話』第二日、青木靖三訳、281-282)

慣性運動は、ガリレオにとっては直線ではなく円運動であった(地球の日周運動は円運動であり、船は地球上をなめらかに航行するのだから、円運動をすることになる)のだが、運動の相対性の原理については、実に見事に述べられていることに注意されたい。19世紀の科学史家、ヒューウェルが力学の歴史においてガリレオに「エポック」(新紀元)を帰属させたのもむべなるかな、と言えよう。


以上の点は、すでに多数の論者によって繰り返し指摘されている。例えば、次を参照。

豊田利幸「ガリレオの生涯と科学的業績」世界の名著『ガリレオ』中央公論社、1973、115-118。

スターシェル「相対性理論の歴史」『20世紀の物理学 I 』丸善、1999、263-264。

「力学史」で歴史的に(例えばマッハなどにより)生み出された「偏見」のたぐいに注意が必要なことは、例えば、伊藤和行「古典力学における運動法則の歴史性」『哲学研究』570号(2000年10月)、53-78などを参照されたい。また、『天文対話』(『二大世界体系についての対話』)を読む際の注意については、ドレイク『ガリレオの思考をたどる』(赤木昭夫訳)産業図書、1993、第12章を参照のこと。ただし、ドレイクの研究については、伊藤和行「ガリレオの手稿とDrakeの研究」も参照。

See also Aristotle's Space


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Last modified March 13, 2001. (c) Soshichi Uchii

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