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Philosophy of Biology

What's ESS (evolutionarily stable strategy)?

討論

「進化的に安定な戦略とは」 内井惣七

[『科学哲学』32-1(1999年5月)pp. 83-85に掲載。メイナード-スミスの論文に関係があるのでここに再録する。]


 

「道徳は進化的に安定な戦略ESSか」という問題に対する、大庭氏の本誌31-2号での反論にお答えしたい。ポイントは次の二つである。(1)ESSの定義の適切さ、および(2)道徳が(アナロジーで考えたとしても)ESSか否か。

大庭氏は「内井自身のESSの定義に従って、道徳はESSになるはずだ」と反論された。しかし、進化生物学の基本概念は、人が自分の好みで好き勝手に変えてよいものではない(哲学者は往々にしてこれをやるので科学者との議論がかみあわなくなる。逆もまた真)。また、いかに「進化論にかんしてズブの素人」(わたし自身も数年前までは同じ)でも、わたしが挙げてある参考文献をチェックしさえすれば、ESSのきちんとした定義はすぐに確認できたはずである。わたしは、大庭氏が引用された拙著の箇所(内井1996、150)で、メイナード-スミス(1985)15ページを挙げておいた。要するに、「集団のほとんどすべての個体がある戦略Sをとっているとき、ほかの戦略がその集団に侵入できない」ような戦略がESSである(自然淘汰による進化の話なので、「長い間に」という限定が必ずつくことに注意)。「ほとんどすべて」という限定はアイマイに見えるかもしれないが、数学的には生物学的利得、適応度の概念によってきちんと定式化できる(メイナード−スミス1985、16)ので問題はない。要するに厳密に「すべて」という必要はなく、Sをとる個体数があまりに少なくて偶然によって(適応度によってではなく)絶滅する可能性を排除するための条件にすぎない。したがって、大庭氏が「ほとんど」に強調点まで打って反論のキーポイントとしたような意義はないのである。

そこで(1)の論点について言えば、大庭氏が引用されたかぎりでのわたしのESSの定義の述べ方は不正確で、これが大庭氏の誤読の一因になったようである。大庭氏が引用されたとおり、わたしは「集団のほとんどすべての個体がある戦略Sをとっているとき、ほかのどんな戦略もそこに侵入してSに取って代わることができない」(内井1996、150)と述べているが、「取って代わることができない」は余計で、「侵入できない」ほうが本質的な条件である(侵入できなければ当然取って代わることもできない)。この不注意な記述については、読者および大庭氏にお詫びする。一言弁明すれば、これは、本質的な条件が当然のものとしてわかっている専門家も時々犯す言葉のすべりで、例えば有名なドーキンスの『利己的な遺伝子』(邦訳)114ページでも、まったく同じ不注意な記述が見られる。

しかし、以上のとおりわたしの側の非を認めた上でなお指摘したいのは、大庭氏の反論が実質的な問題を言葉の定義の問題にすり替えてしまっているということである。わたしが定義の後で具体例としてあげた「タカ・ハトゲーム」の記述では、ある割合で共存する二つの戦略のいずれも「ESSではない」とはっきり述べている(内井1996、152)ので、(2)の問題の文脈では、「道徳」(大庭氏が指摘されとおり「条件つき利他主義」に理解される)の戦略と「利己主義」の戦略が共存するというわたしの主張(内井1996、214、218)の基盤は用意されているはずである(そして、214ページでは、共存戦略のいずれもがESSではないと述べた3.5節にも言及してある)。しかも、もう一度くり返すが、わたしは218ページで「道徳はESSではない」とはっきり否定している。これを無理に肯定形に解釈した(そして、著者わたしの指摘にもかかわらず、まだそうしようとする)大庭氏の読み方は、わたしにはいまだに理解が不可能である。「道徳」の戦略と「利己主義」の戦略は最初に定義して分けてあるのだから、両者の「混合戦略」が仮にESSだとしても、それをもって「道徳がESSだ」と(わたしが言っていると)解釈するのは、詭弁以外の何ものでもない。

そこで、(2)の論点に移りたい。ESSの正しい定義を押さえれば、「道徳が概して人びとの間で行き渡っている」ことはESSか否かという問題とはほとんど無関係であり、「道徳」はESSではありえない。例えば「利己主義」の戦略が(もちろん、利得表の適当な条件のもとで)容易に侵入できるからである。これは、言葉の定義の問題ではなく、実質的な問題(倫理を考える者にとっては重大な問題)である。わたしが、わざわざシジウィックを引き合いに出して解説したポイントはそこにある。利己主義は現にわれわれの集団に侵入しているし、自分自身の行動のうちにも容易に侵入する(これは一種の比喩)ばかりでなく、利己主義を合理性に基づいて排除しようとすることも不可能である。シジウィックがこれをみずから認めたことを理由に、「彼の倫理学は失敗だった」と簡単に宣言してしまう風潮がシジウィック研究の「大家」のうちにさえ見られるが、わたしはこのような浅薄な見解には与したくないので、進化論の知見を踏まえて別の可能性を提示しようとしたのである。しかし、シジウィックの意義については別の論文(Uchii 1998, 内井1999)で詳しく論じたので、ここではこれ以上触れない。また、道徳と利己主義の共存についても別の論文(内井1998b、1998c)で詳しく論じたので参照されたい。

 

文献

ドーキンス(1991)『利己的な遺伝子』(日高敏隆ほか訳)紀伊國屋書店、1991。

メイナード−スミス(1985)『進化とゲーム理論』(寺本英ほか訳)産業図書、1985。

大庭健(1998)「道徳は内井氏の議論においてはESSである」『科学哲学』31-2、1998。

内井惣七(1996)『進化論と倫理』世界思想社、1996。

内井惣七(1998a)「道徳は進化的に安定な戦略か?――大庭健氏の誤読」『科学哲学』31-1、1998。

内井惣七(1998b)「進化と倫理」進化経済学会編『進化経済学とは何か』有斐閣、1998。

内井惣七(1998c)「道徳起源論から進化倫理学へ、第一部」『哲学研究』566号、1998 (テキストは、第二部と合わせてわたしのウェッブ・サイトで読める。http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/SUhome.html)。

内井惣七(1999)「道徳起源論から進化倫理学へ、第二部」『哲学研究』567号、1999。

Uchii, S. (1998) "Sidgwick's Three Principles and Hare's Universalizability", http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/sidg&hare.html, 1998 (printed version: in Uchii's "Three Essays on Ethics", 京都大学文学部研究紀要38、1999)


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