日本史研究室の歩み

 国史学第1講座は明治40(1907)年5月、史学科の開設に伴い、内田銀蔵(1872~1919)を教授として発足、9月に開講された。開設に先立ち内田は明治36(1903)年正月、イギリスに学び、次いでフランス、ドイツ、オランダを歴遊、当時、勃興しつつあった20世紀初頭の最新のヨーロッパ史学の諸潮流を吸収して明治39(1906)年5月に帰国している。内田の学問への関心は広く、歴史学を事件史や個人史からなる旧来の狭い範囲の政治史にとどめようとせず、経済社会の動向や歴史理論に分析の目を向けている。内田の構想では、史学科の中に国史学・史学地理学・東洋史学・考古学を含んでおり、こうした諸学からなる総合的な学問を意図していた。創設以来、国史総論のほか日本経済史、日本近世史を講じ、大正2(1913)年には日本社会史を講義している。内田は大正8(1919)年、にわかに死去するが、死後『日本経済史の研究』『国史総論及日本近世史』『史学研究法及史学理論』(1921年)が刊行された。

  第2講座は明治42(1909)年5月に設置され、三浦周行(1871~1931)が教授になった。三浦は日本中世史・日本法制史・古文書学概論を講じ、内田に続いて日本社会史を講義している。本学へ着任する以前、東京帝国大学の史料編纂掛に勤務し、大日本史料第4編(鎌倉時代前期)の編纂を担当、いち早くこれを完成させていた。京都帝国大学では、その教授着任に先駆けて、三浦に歴史資料の蒐集を委嘱しており、この時から三浦を中心にして、近畿をはじめとする各地の寺社・旧家の古文書、古記録の調査、蒐集の努力が開始され、今日に至っている。原文書の検討の上に立つ、地道で実証的な当講座の学風の基礎がこうして築かれた。

  両教授の指導のもと、明治43(1910)年夏、第1回卒業生7名を出したが、同年12月学生有志が三浦の指導のもとに史料講読を目的として「読史会」を創設、以後この会が発展して、毎年秋の大会に研究発表を行って研鑽を積み、適時、見学旅行を催して日本各地から時には海外に及ぶ史跡の実地研修を行うようになった。

  三浦は大正11(1922)年に初めて渡欧するが、東京帝国大学で直接教えを受けたルートヴィヒ・リースを介して、ドイツ正統史学の巨匠レオポルト・フォン・ランケの学風を崇敬すると同時に、19世紀初頭のカール・ランプレヒトの文化史研究の動向にも深い関心を示している。内田と共に国史学講座の初期の輝かしい歴史を作った三浦は昭和6(1931)年7月に停年退官し、間もなく死去した。『鎌倉時代史』(1916年)、『法制史の研究』(1919年)、『続法制史の研究』(1925年)、『日本史の研究』1・2・新輯(1922、1930、1982年)をその代表作とする。

  内田が死去した後、第1講座は西田直二郎(1886~1964)教授と喜田貞吉(1871~1939)講師が分担したが、西田は大正9(1920)年5月から2年間、イギリス、ドイツに学んで大正11(1922)年末に帰国、その間、喜田が大正9(1920)年7月から大正13(1924)年に至る間、教授を務めている。喜田は豊かな文献学的知識と精密な遺物遺跡の調査を基に民俗・土俗および社会史的な研究を精力的に進めた。帰国した西田は大正13(1924)年に「王朝の庶民階級」で学位を得、喜田の後を受けて教授に昇任した。

  本講座の第1期卒業生であった西田は内田・三浦の薫陶を受けてヨーロッパ史学に関心を持ち、特にドイツにおける傍流史学であるカール・ランプレヒトの文化史の方法に接近し、それの批判的摂取の上に独自の文化史学の方法を打ち立てた。西田の文化史は後年、より純化された形で『日本文化史序説』(1932年)に結実したが、その初心は庶民階級を主題とした初期の学位論文により端的に見られる。西田の学問は方法上、現在社会史として脚光を浴びている学問方法と通底するところが多く、そこには歴史を担う新しい人間集団の形成と、そこにおける新たな人間精神の形成を正面から扱おうとする広い視野が貫かれている。三浦の後、第2講座の教授は空席のまま推移したが、この間、昭和2(1927)年以来、長く中村直勝(1890~1976)助教授が教壇に立ち、古文書学をはじめ、中世の荘園研究、座や供御人研究に多大の業績を収め、学生を指導した。本講座に蒐集された膨大な原本・影写本の集成は三浦の後を受けた中村の努力に負う部分が多い。この間、藤直幹(1903~65)助教授と柴田實(1906~97)講師が中世史と民俗史を講じている。

  第2次大戦の敗北は国史学講座に激変をもたらした。戦争の間、学業を離れて、戦線に赴いていた学生のある者は戦死し、ある者は生きてキャンパスに戻ってきた。しかし国史学講座では戦争への協力を理由に、昭和21(1946)年に西田が、昭和23(1948)年に中村が公職追放に処せられ、共に大学を去った。同じ頃、藤は大阪大学へ移り、翌昭和24(1949)年、柴田は新設の教養部教授に転じた。

  この空席を埋めて困難の中、国史学第1講座の教授として、学問の道統を継いで戦後の斯学を隆盛に導いたのは小葉田淳(1905~2001)であった。小葉田は昭和24(1949)年に教授となるが、京都で三浦の指導を受け、若くして大著『日本貨幣流通史』(1930年)を著していた。三浦のもとで『堺市史』の編纂に従事した後、台北帝国大学に赴任し、朝鮮、琉球、南海、明代中国などと日本との通行貿易史についての研究に励み、史料を博捜、事実に基づいた実証的な研究を『中世日支通交貿易史の研究』(1941年)にまとめた。けだし中世日本にはもっぱら明からの輸入銭が流通していたのであったから、明との通交貿易が小葉田の研究主題として浮かび上がったのである。戦後、書類もノート類もすべて失って台湾から引き揚げた小葉田は一時は東京文理科大学に教鞭を執ったが招かれて母校京大へ移り、新たに堅実かつ清新な学風をここに伝えた。小葉田の研究の重点はその後、貨幣の原材料をなす金・銀・銅を主体とする日本各地の鉱山史研究へと移り、その成果は『日本鉱山史の研究』(1968年)に結実した。16、17世紀に日本産の金銀が世界経済に流通した状態を明らかにして、欧米の学界に注目された。

  赤松俊秀(1907~78)は昭和26(1951)年助教授になり、次いで昭和28(1953)年教授に昇任、国史学第2講座を担当した。赤松は長く京都府にあって、文化財調査を担当し、古文書を始め、美術・絵画・彫刻に深い造詣があり、その生涯は文字どおり文化財とともにあった。第2次世界大戦中に京都の文化財を安全な場所に疎開させた際の責任者であり、その苦労をよく口にしていた。赤松の研究は何よりも新発見の資料に基づく厳密な分析を得意とし、親鸞・一遍を中心とする鎌倉仏教の研究、あるいは菅浦文書や東大寺文書による荘園や供御人、惣など中世の京都の町や商業、荘園など社会経済史の研究であった。第1講座の小葉田が京大着任後は、近世史に重点を置いて研究を進めたのに対し、赤松は主として中世史研究を中心とした。晩年の赤松は『平家物語』の研究に力を致していた。

  小葉田が昭和44(1969)年、赤松が昭和46(1971)年に退官を迎えるまで、2人は事実に基づいた堅実な学風を自ら堅持しつつ、自由奔放な戦後の若者の学問的成長を温かく見守り、多くの個性的な研究者を育て上げた。国史学講座の中で、古代・中世・近世の専門分化が明瞭になり、学生も意識して自分の専門分野の時代を決め、それを集中して研究するようになったのは小葉田・赤松両教授の時代であった。その当時、小葉田・赤松の下では、岸俊男(1920~87)助教授がもっぱら古代史の新分野を開拓していった。

  小葉田・赤松のように昭和初期に学問の道に入った世代は、若き日にヨーロッパの学問に彼の地で直接触れる機会を持たなかった。日本の近代史学がそれなりに成熟したことの反映でもあったが、同時に日本の国家とその学問が広い国際的視野を失いつつあったことの表れと見ることができる。

  小葉田の後、教授に昇任し、第1講座を担当したのは日本古代史に大きな業績を残した岸俊男であった。岸はもともと史料に恵まれず、論拠のはっきりしないままであった当時の古代の政治史叙述をいかにして確実な史実に基づく歴史学に転化させるかに心を砕き、これを実施に移行した。岸は古代の籍帳・宮都・文物についての鋭利な分析を行い、古代政治史研究の水準を現在の高みに引き上げることに成功した。1970年代から1980年代にかけて、平城宮跡をはじめ考古学的な発掘が本格化して新発見が相次ぎ、また木簡研究が古代史研究の新分野として登場するが、こうした気運にのって新たに「木簡学会」を組織した全国の研究者たちは、岸に会長就任を要請、岸もこれを受けて、『木簡研究』を発刊、これを軌道に乗せるなど常にその中心となって活躍し、後進を指導した。岸が教授に昇任した前後は、学生運動の昂揚期に当たっており、荒れる学生を前にして、岸は国史学の主任教授として常にこれに誠実に対処しながら、学問のあるべき形を身をもって示した。

  昭和43(1968)年に助教授になった朝尾直弘(1931~)は、第1講座の岸を助け、実質上は小葉田退官の後を受けて、近世史を講じた。当初は幕末期を研究した朝尾はやがて近世初期に研究の力点を移し、『寛永時代の基礎的研究』(1964年)で学位を得た。昭和55(1980)年に第2講座の教授に昇任した朝尾のもとで、「大学紛争」によって中絶したままになっていた読史会の大会が昭和60(1985)年秋に再開された。また長年の懸案であった文学部附属博物館の改築がなり、蒐集の古文書・古記録類は設備の整った新館の収蔵庫に収納された。朝尾は学生部長、附属図書館長などを歴任する一方、織豊政権、鎖国、身分制、都市論など近世社会に関する理論的、実証的な研究によって長く学界の指導的立場を保ち続けた。

  赤松が退官した後の中世史は昭和46(1971)年以来、大山喬平(1933~)助教授が担当した。大山は農村史を専攻し、中世の荘園研究に力を尽くし、領主制、身分制研究を行い、昭和60(1985)年に教授になり、第1講座を担当した。鎌田元一(1947~2007)助教授が岸の後を追って、昭和58(1983)年以来、古代史を担当し、平成6(1994)年には藤井讓治(1947~)助教授が新たに人文科学研究所から赴任して、近世史を講ずるようになった。

  赤松、小葉田の頃にはまだまだ少なかった外国からの留学生は、岸の時代から数を増やし始め、現在ではアメリカ・ヨーロッパの諸大学における日本学の重鎮・新鋭として活躍する者も少なくない。政治的な理由で実現しなかった韓国からの留学生も1980年代の半ばから増え始め、目を見張るような業績を生みつつある。中国からの留学生も多い。

  平成7(1995)年の文学部改組により、国史学講座は名称も日本史学と改められるとともに、実験講座となり、スタッフの充実も図られたが、その一方で長らく学生の指導にあたってきた研究室付きの助手は廃止された。この年から平成17(2005)年度まで、鎌田教授と吉川真司助教授が古代史、勝山淸次教授が中世史、藤井教授が近世史、そして新たに着任した高橋秀直(1954~2006)助教授が近現代史を、それぞれ担当することとなった(吉川は平成9~12年度、総合博物館へ異動)。その後、平成18(2006)年に高橋助教授が、翌平成19(2007)年に鎌田教授が、在任中に死去するという悲しい出来事が続いた。平成20(2008)年には近現代史担当として谷川穣准教授が新たに人文科学研究所から赴任した。平成24(2012)年3月には藤井教授が定年退職し、4月から新たに横田冬彦教授が近世史の担当として着任した。翌平成25(2013)年には勝山教授が定年退職し、4月からは上島享准教授が中世史担当として着任した。平成25(2013)4年現在、横田、吉川、上島、谷川の四人体制で、広い視野に立った実証主義という独自の学風や学生の自主性を重んじる研究室制度などの優れた伝統を継承しつつ、新しい時代に即した研究・教育のあり方を模索している。

※京都大学百年史編集委員会編『京都大学百年史 部局史編』(京都大学後援会、1997年)の「第1巻 第2章 学部第2節 講座の歴史 2項 史学科」及び「京都大学文学部の百年」編集委員会編『京都大学文学部の百年』(京都大学大学院文学研究科・文学部、2006年)をもとに補筆

日本史学(旧国史学)専任教員一覧
内田 銀蔵  1907. 5. 3 ~ 1919. 7.12
三浦 周行 1909. 5.22 ~ 1931. 7.15
西田直二郎 1919. 6.12 ~ 1946. 7.31
喜田 貞吉 1920. 7. 5 ~ 1924. 9.29
中村 直勝 1927. 7.19 ~ 1948. 1.29
藤  直幹 1936. 3.31 ~ 1948.10.24
柴田  實 1946. 8.26 ~ 1950. 3.31
小葉田 淳 1949.11.30 ~ 1969. 3.31
赤松 俊秀 1951. 8.16 ~ 1971. 3.31
岸  俊男 1958. 3. 1 ~ 1984. 4. 1
朝尾 直弘 1968. 4. 1 ~ 1995. 3.31
大山 喬平 1971. 4. 1 ~ 1997. 3.31
鎌田 元一 1983. 4. 1 ~ 2007. 2. 2
藤井 讓治 1994. 4. 1 ~ 2012. 3.31 
高橋 秀直 1995. 4. 1 ~ 2006. 1. 22
吉川 真司 1996. 3. 1 ~ 1997. 3 .31
勝山 淸次 1998.10. 1 ~ 2013.3.31 
吉川 真司 2001. 4. 1 ~  
谷川  穣 2008. 4. 1 ~
横田 冬彦 2012. 4. 1 ~ 
上島  享 2013. 4. 1 ~

※前掲『文学部の百年』所収「教員一覧」を参照し、最新データを補足。なお教授・助(准)教授の在任時期のみを収める。